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花街あれこれ⑨(江戸遊里別名いろいろ)

2019.01.13 20:18|花街あれこれ
 遊里といえば最も有名なのは江戸吉原。客にとっては極楽ですが、そこに生きる遊女にとっては地獄そのもので、「生きては苦界、死しては浄閑寺」といわれました。
 吉原は何度か火災で焼失しますが、同じ形に再建されたので町並みは変わりませんでした。吉原は江戸町一・二丁目、京町一・二丁目、角町の合わせて五町から構成されていたので、俗称を「五丁町」ともいいました。
 吉原の別名はよく知られているように「ありんす国」と、上述の「五丁町」ですが、他にも江戸城の北に位置したことから、北国・北里・北廓・北狄・きた、などとも呼ばれていました。
 辰巳芸者で有名な深川は、江戸城の南東(辰巳)にあったことから辰巳、他には東夷などの呼び名がありました。品川はみなみ、南川(なんせん)、南蛮など、新宿は西戎などと呼ばれていました(京都嶋原も同様、御所から南西方向に位置したため坤郭(こんかく)という別名があったようです。坤は未申すなわち南西のこと)。
 こうして見ると、吉原・深川・品川・新宿が東西南北で対比されており、その繁栄ぶりがうかがえます。
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花街あれこれ⑧(花魁道中)

2019.01.06 22:01|花街あれこれ
 太夫職の遊女が、置屋から揚屋入りすることをいいます。吉原では宝暦年間に太夫職が消滅したので、それ以後は呼出という階級の遊女が揚屋入りしたのを指します(嶋原では太夫職は現在も消滅していないので、嶋原の道中は正しくは「太夫道中」と呼びます)。
 そのときの歩き方が、有名な「八文字」。八文字には、内八文字と外八文字がありますが、内八文字は主に京嶋原で、外八文字は江戸吉原で行われたそうです。
 江戸吉原も当初は内八文字でしたが、「勝山髷」で有名な遊女勝山が外八文字に踏んで以後、吉原では外八文字で歩くようになったとか。
 男装を好んだ勝山の始めた「外八文字」は、内八文字よりも活発な動きをする歩き方だそうです。

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花街あれこれ⑦(江戸吉原七不思議)

2019.01.04 19:22|花街あれこれ
 昨年末に映画版の『吉原炎上』がTV放送されていましたね。内容が過激そうで、私はまだ観たことがないのですが……。
 弘文堂『日本風俗史事典』によれば、吉原は1761(宝暦11)年に太夫・格子がいなくなり、太夫・格子に次ぐ散茶女郎が太夫格になったものを「花魁」と呼んだといいます。東京堂出版『女性語辞典』によれば、「さんちゃ」の呼称は、従来先住した太夫・格子が唱えた蔑称で、「さんちゃ」は床に入っても客を「ふり出さない」ことからつけた名だそうですが……。
 「おいらん」の語源は妹分の女郎や禿が姉女郎を指して「おいら(己等)が」(または「おいらのところのあねさん」)といって呼んだのに基づくとされていますが、「花魁」について「太夫」と書いてある本や、「部屋持以上の遊女」と書いてある本があり(また単に遊女・女郎を指す場合もあるようです)、混同があったようです。北村鮭彦『お江戸吉原ものしり帖』(新潮文庫)によれば、「呼出、昼三、附回の三階級の遊女が花魁と呼ばれた」とあります(吉原で太夫職・格子職が消滅して以後は、呼出が最上位)。
 京嶋原では太夫職が消滅しなかったので「太夫道中」ですが、江戸吉原では宝暦年間に太夫職・格子職が消滅してしまったので、それより後はやはり「花魁道中」が正しいということになるのでしょうか。

 客の質的低下ももたらされ、時代が下るにつれて「悪所」となっていった吉原。それでも江戸時代の流行の最先端、ファッションリーダーであり続けました。
 人びともそんな吉原に興味があったようで、「江戸吉原七不思議」なるものがあります。
 この七不思議、怪奇的な意味合いの「七不思議」ではなく、駄洒落や滑稽なものがほとんどです。

 大門あれど玄関なし ①
 茶屋あれど茶は売らず ②
 角町あれど中にある ③
 揚屋あれど揚げはなし ④
 やり手といえど取るばかり ⑤
 年寄りでも若い衆 ⑥
 河岸あれど魚なし ⑦
 水道あれど水はなし ⑧

 ①「大門(おおもん)」とは吉原大門のこと。大門は建物の門ではなく、従って玄関もないという駄洒落。
 ②茶屋とは非公認の売春所であり、茶屋とはいうものの茶の店ではないという駄洒落。
 ③角(すみ)町と、端の意味の「隅(すみ)」を引っかけて、「名前は隅なのに、中にある」という駄洒落。
 ④揚屋は遊女と遊興するための施設で、揚げ物を売る店ではないという駄洒落。
 ⑤遣り手とは、妓楼のことを取り仕切る老婆のこと。何かを「やる」人ではないという皮肉。
 ⑥妓楼で働く男性従業員は、年齢に関係なくみな「若い衆」と呼ばれたことへの駄洒落。
 ⑦河岸とは、吉原周囲のお歯黒溝に面した格式の低い遊女屋「河岸見世」のことで、魚河岸を指すわけではないという駄洒落。現在も飲食・遊興する場所は特に「河岸」などと呼ばれます。
 ⑧当時は吉原の突き当たり・町はずれに水道尻という俗称があったようですが、水道は通っていないという駄洒落。

 ちなみに、江戸吉原と双璧をなす京嶋原にも「京嶋原七不思議」があります。

 入り口を出口といい ①
 堂もないのに「どうすじ」という ②
 下へ行くのを上之町 ③
 上へ行くのを下之町 ④
 橋もないのに端女郎 ⑤
 社もないのに天神様 ⑥
 語りもせんのに太夫さん ⑦

 ①③④入口を出口と呼んだのは、嶋原の入口(嶋原大門)が鬼門方向にあり、縁起が悪いとされたため。「下へ行くのを上之町、上へ行くのを下之町」も、入口が鬼門方向にあったことから、廓内で南北東西を逆にしたことにちなみます。
 ②堂筋は嶋原の目抜き通り。お堂はないが堂筋という名前という駄洒落。
 ⑤端女郎は嶋原であまり低くない位の女性。橋があるわけでもないのに「はし」女郎という駄洒落。
 ⑥天神は太夫に次ぐ上級位の妓女。揚げ代が銀25匁だったので、北野天神の縁日(25日)にかけてこう呼ばれたともいわれます。神様である天神様と、天神職の女性を引っかけた駄洒落。
 ⑦太夫は嶋原最高位の妓女ですが、浄瑠璃で語る人も指すので、それと引っかけた駄洒落。

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花街あれこれ⑥(遊郭25ヶ所)

2016.03.28 20:41|花街あれこれ
 『守貞謾稿』に、『洞房語園』に所載の遊廓(官許の遊里)25ヶ所が書かれていました(孫引き)。
 それによれば、

 「武陽浅草の吉原(現東京都)、京都島原(現京都府)、伏見夷町(現京都府)、同所柳町(現京都府)、大坂瓢箪町(現大阪府)、奈良鳴川(現奈良県)、江州大津馬場町(現大津市)、駿府府中弥勒町(現静岡県)、越前敦賀六軒町(現福井県)、同国三国の松下(現福井県)、同国今新庄町(現福井県)、泉州堺北高洲町(現在大阪府)、同国同所南津守(現在大阪府)、摂州兵庫磯の町(現兵庫県)、岩見塩泉津稲町(現島根県)、佐渡鮎川山崎町(現新潟県)、播州室小野町(現兵庫県)、備後鞆〔蟻〕鼠町(現広島県)、芸州多太の海(現広島県)、長門下の関稲荷町(現山口県)、肥前長崎丸山町(現長崎県)、薩州樺島田町(現鹿児島県。正しくは肥前樺島で、現長崎県)、同国山鹿野(現鹿児島県)」

 が、官許の遊里25ヶ所ということです。ただし『色道大鏡』などと比べると異同があるので(『色道大鏡』で廃絶したとされている遊里が『洞房語園』に記されている等)、必ずしもこれが正しいというわけではないようです。
 官許でない遊里を江戸で「岡場所」と呼んだということはよく知られていますが、上方では「外町(そとまち)」と呼んだそうです。京都では、祇園町のことは「河東」といい、大坂では、島の内・坂下等は「南」と呼んだそうです。また、『守貞謾稿』には、「官許にて廓をなすものを花街の字をあて……」とあります。現在「京都五花街」には、祇園も含まれています。
 江戸では遊女町(官許・非官許とも)は「悪所」と呼び、京坂では「いろまち」と呼んだそうです。

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花街あれこれ⑤(花代のこと)

2016.03.21 19:50|花街あれこれ
 現在も、舞妓さんや芸妓(芸子)さんをお座敷に招くときの料金を「花代」などと呼びます。
 遊里ではかつて線香を焚いて時間を計ったそうですが、そのとき線香を「花」と称していたことに因みます(線香が燃え尽きるまでの時間分、舞妓さんや芸妓さんを招いていられた)。
 島原の太夫と遊ぶには一日夜銀72匁(金1両が銀50~60匁)かかったといいます。『守貞謾稿』に

 「また太夫は一日夜七十二匁、たとひ一時半日といへども減銀せず。……天神以下の遊女および芸子は一日一夜の定制差あり。……」

 とあります。遊女や芸妓と遊興するには、時間によって遊興費が変動することがあっても(天神は銀25~28匁、囲いは銀14~16匁と、基本的には額が定まっていたようですが)、太夫と遊ぶには、時間による減額などはなかったということでしょう。ちなみに、島原以外の遊里(非官許)では線香で時を計り、時間に応じて支払う金額が決まる制度がもっぱらであったらしく、花(線香)一本が銀2匁3分であったといいます。『守貞謾稿』に「一時に五本焚く。一日に三十本、花代銀六十九匁……」とあったので、線香一本が燃え尽きるのは大体25分くらいということになるのでしょうか(一時は現在の約2時間で、季節によって変動)。とはいえ、あくまでもこれは目安であって、増減することもあったようです。
 ちなみに、島原の太夫は銀72匁とあったが実際は銀57匁6分、大坂新町の太夫は銀69匁とあったが実際は銀61匁1分だったそうです。これもあくまで「目安」とありますが……。
 太夫に次ぐ位である天神は、その名称が、揚代が銀25匁で北野天神の縁日(25日)とかけたためといわれていますが、後に素晴らしい天神が現れたので、揚代が銀28匁になったという記述もあります。また、かつては大天神と小天神とがあり、大天神が銀43匁、小天神が銀25匁であったともいいます。ちなみに大坂新町の天神の揚代は、銀33匁であったそうです。

 余談ですが、金は主に江戸で、銀は京坂で用いられた貨幣といいます。また、身分によってお給料も金本位と銀本位とに分かれていました(武士では、大名やお目見えは金、それより下は銀。町人や百姓は銭)。
 京都嶋原では、天神の名前の由来が揚代25匁で天神様の縁日に因むということからも分かるように、銀が用いられていたようです。しかし太夫の揚代は「1両2朱」と記述されている場合もあり、こちらは金による計算です。客層の違いということと関連があるのでしょうか。

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