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妖怪について・4 天邪鬼

2015.01.31 19:28|日本の神話・伝説・昔話
 人の言葉・意に逆らう人のことを「天邪鬼」と呼びます。最近は聞かないような気もしますが、考えてみれば妖怪の名前がかなり生活に溶け込んでいるのだと気づかされます。
 天邪鬼の像は大抵、四天王像に踏みつぶされている姿しかないので、哀れといえば哀れな気がしますが、来歴自体はかなり古い妖怪のようです。

 天邪鬼
 人の意に逆らい、他人の心中を察する能力に長け、口真似や物真似をして人をからかう妖怪とされています。口真似をすることから、天邪鬼と山彦とが同一視されている地域もあります。
 天の邪鬼は、記・紀神話に登場する天探女(あまのさぐめ)が魔女視されるようになったとも、『先代旧事本紀』に登場する天逆毎(あまのざこ)や天魔雄神がモデルになっているともいわれます。
 天探女に関しては様々な解釈がありますが、室町時代後期の日葡辞書(※キリスト教布教のために日本を訪れたイエズス会が編纂した、日本語→ポルトガル語の辞書)に、アマノザコを「さしでがましいもの。干渉好きの人。おしゃべり屋」とあり、天探女がアマノザコへ変化していった論拠の一つともなっているようです(amanösagume→amanozaku→amanojaku)。
 天孫ホノニニギが葦原中国に降臨する際、葦原中国は非常に荒れていた(騒がしく天津神に従わない神や、草木もそれぞれ物を言い人を脅かしていた)ため、それらの「邪しき鬼」を平定しようと、高天原から何回か神々が派遣されました。天稚彦という神も先払いとして派遣されましたが、この神は国津神(葦原中国の神)を娶り、高天原に戻ることはありませんでした。
 天稚彦が戻って来ないことを怪しんだ高天原の神が無名雉(ななしきぎし。雉は使者として登場する鳥)を派遣して天稚彦の様子を窺わせたところ、天探女が不思議な鳥(無名雉)がいることを天稚彦に伝えてしまったので、雉は射殺されてしまったのです。雉が殺されたことは高天原の神にも知れ、結局 天稚彦も高天原の神に殺されてしまったということです。この一連の伝承から、日葡辞書にあるアマノザコ像が生まれたと考えられます。
 天逆毎・天魔雄神については、まだ『先代旧事本紀』を読めていないので、鳥山石燕(※)の著した『今昔画図続百鬼』から「天逆毎」に関する記述を抜き出してみました(以下、抜粋)。
 「或書ニ云フ。素戔嗚尊ハ猛気胸ニ満チ、吐テ一神ノ神ヲ為ス。人身獣首、鼻高ク耳長シ。大力ノ神ト雖モ、鼻ニ懸テ千里ヲ走ル。強堅ノ力ト雖モ、噛ミ砕テ段々ト作ス。天ノ逆毎姫ト名ヅク。天ノ逆気ヲ服シ、独身ニシテ児ヲ生ム。天ノ魔雄(サク)神ト云云」

※……江戸時代の絵師。『図画百鬼夜行』『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』などを刊行し、妖怪画を多く描いたことで知られています。彼が考えた妖怪が、現代の妖怪を扱った作品(水木しげる氏などの作品)に用いられていることもあります。
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妖怪について・3 赤鬼、青鬼

2015.01.26 20:20|日本の神話・伝説・昔話
 童話作家・浜田廣介氏の『泣いた赤鬼』に、赤鬼の親友として青鬼が登場します。鬼といえば大体赤鬼が連想されて、赤鬼とセットで青鬼が登場する気がします。
 そういえば来週は節分なので、意図せずにタイムリーな記事になったようです。

 赤鬼・青鬼

 赤鬼は名の通り、赤衣を身に着けた赤肌の鬼のこと。ちなみに、疫神や疱瘡神は赤い衣を着、赤い褌をしめているなど、赤鬼と似た姿で描かれることが多いようです(一方で、赤色は病魔が嫌う色という俗信があったようです。江戸時代、子どもの読む本を「赤本」といいましたが、子どもには病魔除けのため赤色のものを身に着けさせることが多かったとか。還暦のお祝い、赤いちゃんちゃんこや「赤ん坊」ということばからも、赤は神聖な色であり、生命の力を表す色であったと考えられます)。また、赤鬼は一つ目である(『宇治拾遺物語』)、阿倍仲麻呂の亡魂が赤鬼になった(『阿倍仲麻呂入唐記』)ともいいます。
 青鬼は赤鬼の逆で、青衣を身に着けた青肌の鬼のことをいいます。
 笹間良彦『図説・日本未確認生物事典』(柏美術出版株式会社、1994年)によれば、赤鬼・青鬼とは地獄思想の影響を受けているようで、『源平盛衰記』などに赤鬼青鬼が閻魔大王の使いとして描かれている記事が見られ、この仏教思想が民間に定着していったと考えられるといいます。さらに遡ればその赤鬼・青鬼とは、色素の濃い異国人の姿から影響を受けているのではないかとあります。
 ちなみに、「鬼」門のある方向が北東すなわち「丑寅」の方角であるため、一般的に描かれる鬼は牛の角を持ち、虎の毛皮を身に着け、虎のような牙とたてがみを持っているのだそうです。鬼と鬼門については関連があるようですが、その鬼を退治する桃太郎のお供に関連して、曲亭馬琴(『南東里見八犬伝』の作者)は、「鬼が島は鬼門を表せり。之に逆する西の方を申、酉、戌をもってす」と、桃太郎のお供が犬・猿・雉である理由を説明しています(この、お供が犬・猿・雉である理由には、諸説あります)。
 そしてこれは全くの余談ですが、京都御所の鬼門封じは比叡山延暦寺、江戸城の鬼門封じが上野寛永寺で、そのため上野寛永寺の号は「東叡山」(東の比叡山、の意)。
 「鬼」に関しては様々な研究がされていますが、古くは「鬼」と書き「モノ」と読ませていました。『日本書紀』にも「邪しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ。云々」などと書かれている箇所があります。
 「鬼(キ)」という字は、中国では死者を指す語でしたが、日本に伝わって「隠(オン)」、すなわち陰なる邪な存在を表す語になり、さらにそこに角を生やし虎の毛皮を身に着けた私たちの知る「鬼」の姿が定着してゆき、それが現在 鬼と呼ばれるようになったのだといいます。

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妖怪について・2 邪しき鬼(モノ)

2015.01.24 19:12|日本の神話・伝説・昔話
 第2回です。次回以降は有名な妖怪について載せてみようかと考えています。
 そういえば、妖怪に関する本は、意外と(文庫本などでも)あって驚きました。私が小さい頃も都市伝説や怪談が流行りましたし……。妖怪を知るということは、その妖怪に名前や姿、役割を与えた人間の心を知るということだからかもしれません。
 そんなわけで(?)、妖怪の原点ともいえる「邪しき鬼(モノ)」についてです。

 邪しき鬼(モノ)
 日本には古くから「アニミズム」の考え方があります。これは、生物・無機物問わず万物に魂・霊が宿っているという考えです。
 日本に古くからある(神道の)「八百万の神」の考えを見ても、日本人にはとても馴染み深い考えといえるでしょう。付喪神(九十九神)なども、日本が古くからアニミズムの考え方をもっていることを示す例です。
 神話の時代、天孫・ホノニニギが降臨しようとした葦原中国は、「多(さは)に蛍火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへな)す邪(あ)しき神有り。復(また)草木咸(ことごとく)に能(よ)く言語(ものいふこと)有り。……」(紀本文)という状態でした。これらは「邪しき鬼(もの)」として、タカミムスヒ(※)の命で討伐されることになります。
 古くは自然現象も神と捉えられ、それらは古代の人々にとって畏怖されるべき対象でもありました。その万物に宿る神々も、「邪しき鬼」として高天原の神々によって討伐されるべきものとされてしまったのですが、これらの記述から、妖怪が凋落した神々であると考える説があります。また、妖怪が凋落した神々であるというより、神は二つの側面(和御魂と荒御魂)をもっており、その荒ぶる神が妖怪であると解する見方もあります(例として、和ぎればお狐様、荒ぶれば九尾の狐になるといわれています)。
 神話時代には形をもたなかった妖怪ですが、後にそれらは具体的な形を与えられていきます。鎌鼬という自然現象も明確なイメージが付与され、私たちの知る妖怪「鎌鼬」になりました。古くは「よくないもの」(「邪しき鬼」)を意味していた「鬼」は、私たちの知る、角が生え虎の毛皮を纏った「鬼」になりました。
 余談ですが、先述した『日本書紀』にある「邪しき鬼」とは、天津神(大和朝廷)に従わない神々、すなわち各地の土着の神々のことを指しています(『古事記』には「道速振荒振國神等(ちはやぶるあらぶるくにつかみども)」とあります)。

※……『古事記』では高御産巣日神(後に「高木神」)、『日本書紀』では高皇産霊尊。上代文学研究の分野では、アマテラス以前の高天原の主神であったと捉えられている神です。『古事記』では「天地初発」の時に登場する「造化三神」(他の二神は天御中主神、神産巣日神)のうちの一柱で、タカミムスヒが主に高天原神話で活躍するのに対し、対になった神名をもつカミムスヒは出雲神話で活躍します。「ムスヒ」が「ムスビ」(結ぶ)に転じ、良縁の神様と捉えられるようにもなりました。

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妖怪について・1 異界について

2015.01.22 19:57|日本の神話・伝説・昔話
 昨年は「妖怪ウォッチ」の影響で妖怪ブームでした。私は民俗学の面白さに気づいて以来、妖怪にも興味があっていろいろ調べてみたので、以下に妖怪について載せておきます。

異界について:境界の向こう側

 「境界」とは私たちの暮らす現実世界と、異界とを分けているものと捉えられていました。
 それでは境界の向こう側の異世界とはどんなものであったかというと、そこは妖怪に代表される、人智を越えた不可思議な存在の暮らす世界であり、現実世界とは隔てられた世界と考えられていたようです。
 異界の代表的なものが「山」「海」でした。山の上には別世界があるという考え(山上他界観)や、海の向こうには別世界があるという考え(海上他界観)は、民話にも見られます。例えば、海の向こう(もしくは海底)にある別世界に行った浦島太郎がそうですし、山の奥にある「隠れ里」も同じ考えに基づいていると考えられます(「舌切り雀」に登場する「雀のお宿」などが隠れ里です)。また、山も海も異界であったため、そこへ入ってゆく猟師や漁師は「忌詞(いみことば)」という、日常生活では用いられない特別な言葉を使ったといわれています。現在よりも異界という概念が強くあったためでしょう。
 それでは、私たちの暮らす現実世界と、異世界との境界とは、どこにあったのでしょうか。
 よく、幽霊が柳の下に立つ、という絵が見られますが、柳は橋の傍に植えられる樹でした。柳は水を好むので、よく川辺、橋のたもとに植えられたのですが、橋は「あちら(彼岸)とこちら(此岸)を繋ぐもの」で、「境界」を表しています。日本の絵巻に橋が描かれている場合、一緒に道祖神などが描かれていることがあります。道祖神(塞の神)もまた、「境界」を象徴するものでした。
 橋は境界を象徴し、そこから「あの世とこの世を繋ぐもの」という意味合いをも持っています。そこで、橋のたもとに植えられる柳にも、境界の意味が付与されました。柳の下に幽霊が立つのは、柳や橋が「あの世とこの世の境」の象徴であることからきていると考えられます。橋の語源は「端」であるとされますが、その他、「はしご」「はしら」「きざはし」など、端と端とを結ぶことから、「何かと何かを結ぶもの」が「はし」とされているようです。また、「辻」(「つむじ」と同様の性格をもつ言葉で、何かを集合させる、巻き込むという意味合いをもつ語とされます)なども、橋と同様、特異な空間と見なされていたようです。辻ごとに供養棚が置かれたり、無縁仏供養のための施餓鬼棚が置かれていたのも辻であったりというのが、その代表例です。
 上記の通り、妖怪は異界に暮らす存在でしたが、異界は私たちの暮らす人間世界と隣り合う世界でもありました。道祖神より向こう側、つまり村を一歩出ればそこはもう「異界」でした。それだけでなく、家の中にも境界はありました。例えば玄関がそうですし、お便所もそうです。特にお便所は、多くの幽霊が登場する場所でもあります。異界と現実世界とは隣り合う世界(身近なもの)であったがゆえに、村の中でも行き会う相手が誰か確認できない「誰そ彼時」は「逢魔が時」であり、妖怪の住む異世界と私たちの暮らす現実世界との境目が薄れる、妖怪に出会う可能性のある時間でもありました。この時間は昼から夜へと移行する、時間的な「境界」であったためでしょう。
 また、幽霊が出現するのは「丑三つ時」(※)ですが、やはり夕方から夜にかけて、太陽の力が届かない時間が人間にとっては恐ろしい時間であったようです。

※……江戸時代には日の変わり目は丑寅の間とされ、丑の刻が1日の終わりとされていました。干支で表す時間(=一刻)は現在の2時間に当たり、それらはさらに四分して「1つ、2つ、3つ、4つ」と呼ばれました。この一つ・二つを「初刻」、三つ・四つを「正刻」ともいいます。子の刻はおおよそ現在の午後11時から午前1時までの2時間(午前0時から午前2時までとする説もあります)で、丑三つ時は現在の午前2時~2時半頃になります。
 余談ですが、午の刻が現在の午前11時から午後1時(初刻が午前11時~12時、正刻が午前12時~午後1時)に当たるので、「午前」「正午」「午後」などの語が生まれました。
 管理人が運営している日本文化ぶっこみサイト「コトノハナ」の「わのこと」→「近世」→「江戸時代の暦法」に図示も載せてありますので、よろしければ参考までに。

 なお、幽霊と妖怪の違いについては、この記事で少し触れています。参考までに。
 余談ですが、友人に薦められて私も「妖怪ウォッチ」をプレイしました。友達はなかなか増やせませんが、季節が夏休みということもあり、小学校時代がすでに遠くなった私にとっては懐かしくも新しい内容で、面白いです。
 さらに余談ですが、私が妖怪に興味を持った理由その2は(その1は民俗学)、同じくゲームの「大神」でした。私の中で今なお不朽の名作と位置づけられているゲームです。日本文化もふんだんに取り入れられていますので、興味のある方はぜひ。

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鏡開き

2015.01.20 19:53|四季おりおり
 1月20日は二十日正月と呼ばれ、正月に迎えていた年神様が早朝にそれぞれの場所にお帰りになる日とされています。
 鏡開きは本来 1月20日に行われていましたが、江戸幕府三代将軍・徳川家光の忌日が20日であったことから、商家が蔵開きをしていた11日に改められたのだといいます(3日、4日に鏡開きを行っている地域もあります)。神霊が刃物を嫌うことから、鏡開きには手や木槌を用います。また、「切る」や「割る」は縁起の悪い忌み言葉であるため、末広がりを意味する「開く」という言葉を用いることになっています。
 江戸時代には鏡開きのお餅をお雑煮やお汁粉にして、武家や商家の主人・従者や家族が揃って食したことから、家族や主従の親密さを深めるという意味合いが大きかったようです(武家社会では具足に供えた鏡餅をお雑煮やお汁粉にして食すこの行事を「具足開き」と呼んでいました)。
 年神様にお供えしたお下がりを頂く鏡開きによって、長く続いたお正月の行事は終わりとなります。

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小正月も過ぎてしまいましたが、正月の行事について

2015.01.18 12:52|四季おりおり
[成人の日]
 以前は1月15日でしたが、2000年から1月の第2月曜日となりました(いわゆる「ハッピーマンデー法」)。
 かつては、男性は元服(成年式)が行われる13~15歳が、女性は成女式が行われる12~16歳が大人として認められる年齢でした。
 男子の元服は、髪型を変え冠(烏帽子)をかぶり、衣装が正式なものに変わりました。烏帽子をかぶったことから、元服は「加冠の儀」とも呼ばれています。男子の元服では、名前も改められました。
 女子は前髪を結い上げ、お歯黒を塗って(江戸時代以降は、お歯黒をつけたのは主に既婚者)、眉墨をし、衣装を大人のものに変えました。有名な『筒井筒』にも、「くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき」などとあるので、髪を上げることは成人することを意味し、また、成人するということは間もなく結婚するということでもありました。
 成人の日が1月15日に定められたのは1948年からですが、2000年からは1月の第2月曜日となっています。年末年始に里帰りした人に合わせて、正月中に成人式を行う自治体もあるようです。
 通過儀礼としての男子の成人式は、682年には既に制定されており、奈良時代以後は「元服」(「元」は首、「服」は着用するの意)と呼ばれたようです。
 成人式に関しては、何年も前から各地で問題が起きていますが、敗戦後間もない日本の「次代を担う青年達に明るい希望を持たせ励ます」という趣旨が根本となっていること、また成人になることを祝福されるということの意味を踏まえて、この行事について考えたいものです。
[小正月]
 1月15日は小正月。この日は、家族の健康を祈って小豆粥を食べる習慣があります。
 1月1日から7日までの大正月は、特に年男が活躍することから「男正月」と呼ばれますが、それに対して小正月は女の正月とも呼ばれていました(女性が大正月の間 忙しくしているため、それを労うという意味で「女正月」と名づけられているともいいます)。
 この小正月に、なまはげ・かまくらなどの行事が行われますが、特に有名なのが左義長(どんど焼き・どんど祭り、さいと焼きなどともいいます)でしょうか。この行事で正月飾りを神社や寺院の境内などで焼いて祓い清め、その煙に乗ってお正月にいらっしゃった年神様が天上へ帰って行くのだとされています。
 小正月は、月の満ち欠けを基準にしていた旧正月では、新年最初の満月の日にあたりました。農業は月を基準にしていたことから、小正月に行われる行事は豊作を願う行事が多いようです。私の出身地では、小正月に行われる左義長は「どんど焼き」と呼ばれており、この時に繭玉と呼ばれるお餅の飾り(餅花と呼ぶ地域もあります)を木の枝に挿して飾っています。これは私の出身地(長野県東信地方)が、かつて養蚕が盛んであったことに由来しているようです。左義長の時に焼かれたこのお餅の飾りを食べると、1年間無病息災で過ごせるといわれています。
 左義長の由来は、平安時代の宮中の儀式で三鞠杖(さぎちょう。鞠杖(ぎっちょう)とも)と呼ばれる青竹を立てて正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説、鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)に由来するという説などがあります。一方のどんど焼きは火が燃える様子が、さいと焼きの「さいと」は道祖神をお祀りする場所のことが、それぞれ由来となっています。
 小正月にはこの他にも、小正月に食す小豆粥で豊凶を占う粥占、鳥追い行事、『遠野物語』で知られるオシラサマに関係したオシラ遊ばせなどが行われます。大正月の行事に対し、小正月に行われる行事は、郷土色が強く家庭的なものが多いようです。

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七草粥

2015.01.07 19:04|四季おりおり
 七草粥は、中国で官吏昇進を決めたのが一月七日であったことから、その朝、薬草である若菜を食べて、立身出世を願ったのが起源だといわれています。この行事が日本に伝わり、最初は宮廷の儀式であったものが、江戸時代に「七草の節句」に定められました。この日は、明治時代の改暦以前には、五節句(三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の重陽、正月七日の人日)の一つ「人日の節句」として公式に祝われていたのです。
 七草の種類には、地域差がありますが、一般的には芹・薺(なずな)・御形(ごぎょう)・繁縷(はこべ)・仏座(ほとけのざ)・菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)の七種といわれています。七草は六日の昼に摘み、七日の朝に調理しました。七草を刻むときは、七草を俎板に載せて囃して(「七草の囃し」、または「七草囃子」といいます。「唐土(とうど)の烏が日本の土地へ渡らぬ先になずなななくさ(ななくさなずな)」、もしくは「唐土の烏と日本の烏と渡らぬ先に、ななくさなずな手に摘み入れて」などと歌います)叩き、調理しました。この七草の囃しは、鳥追い歌と結びついているといわれています。
 正月六日の夜から七日の朝までを「六日年越し」「六日年取り」などといい、元日から続けられた正月行事が終わる幕の内最後の日に行われる行事が、この七草粥です。伊勢神宮でも、現在も正月七日に内宮・外宮に若菜の粥をお作りしてお供えするそうです。
 正月のご馳走で疲れた胃を癒し、青菜の少ない時期に栄養を取り入れられることから、七草粥を食すのは、実際に健康にとってもよいことのようです。
 余談ですが、正月十五日の小正月に食べる小豆粥も、かつては「七種粥」という名でした。こちらに入れられたのは、米・粟・稗・黍・小豆など七種。小豆は赤い色をしていることから、魔除けとして赤飯などにも用いられます。

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お正月のこといろいろ

2015.01.03 09:42|四季おりおり
[鏡餅]
 その丸い形が望月(満月)に通じ、円満の象徴とされます。また、鏡餅という名前が、三種の神器の鏡(八咫鏡)に由来するともいわれます。鏡餅の上に載せる橙は、実が落ちてからも落ちずに毎年実をつけることから長寿の家族に見立てられ、またその名前から「家が代々続くように」という縁起物にもされています。譲葉は、新しい葉が出てから古い葉が落ちることから、家督が親から子へと続くことを願う気持ちが込められています。
 12月29日に餅をつくことを「苦(く)もち」、31日につくことを「一夜もち」といい、それを嫌って28日に餅をつくことになったそうです。そのことから、28日が御用納めや門松を立てる日になりました。
 鏡餅は、1月11日の鏡開きの日まで飾られます。
[門松]
 年神様が降りてくる目印であると同時に、年神様の依代とされています。古くは12月13日に山から松を伐って門松を作り、小正月(1月15日)に外し(松送り)、焚き上げていました。この焚き上げが「どんど焼き」「とんど焼き」といいます。
 現在では、門松は正月6日の夕方に取り払うところが多いことから、6日までを「松の内」というようになったそうです。ちなみに、門に向かって左側を雄松(おまつ)、右側を雌松(えまつ)といいます。
[注連飾り]
 神様を祀る場所であることを示すもので、これを門や玄関に飾ることで、家が清浄であることを示しているのだとされます。古くは注連縄を張っていたそうです。
[初詣]
 年神様が「恵方」にいるという考えから、江戸時代に恵方詣(自分の家からみて恵方にある神社に参拝すること)が盛んになり、それがさらに時代が下って明治時代に、方角にかかわらずにぎやかな神社に参拝することになったものが「初詣」といわれます。古くは年ごとに自分の家の神棚の位置を恵方の方角に変え、そちらに豊作を祈っていたそうです。

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長き夜のとをの眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな~初夢について~

2015.01.02 08:12|四季おりおり
 サイトにも載せてありますが、正月二日の夜に見る夢が一般的に「初夢」とされていますので、初夢について下に載せました。

 昔は書き初め、稽古始め、仕事始めなど、年初めの行事が二日であったことから、二日に見る夢を初夢として重視したようです。
 縁起の良い初夢として知られているのは、「一富士二鷹三茄子」。この後は四が綿、五が煙草……と続いているそうです。富士山は日本一の山、鷹は高いの語呂合わせ、茄子は「事をなす」ことから高い志を実現するということで、縁起が良いとされました。ただ、これには諸説あり、鷹がもとは「愛鷹山(あしたかやま)」のことで、高いもの尽くしである(標高の高い富士山と愛鷹山、それに元禄時代に非常に高値であった茄子)ことが由来であるとも、この一から五までが駿河(現在の静岡県)の名物で、これは江戸時代、天下をとった三河国出身の徳川家康にあやかろうとしたものだともいわれています。
 「長き夜のとをの眠りの皆目覚め波乗り船の音の良きかな」という歌(上から読んでも下から読んでも、同じ文になります)を書いた宝船の絵を枕の下に敷いて寝ると、良い初夢が見られるそうです。

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あけましておめでとうございます

2015.01.01 14:12|四季おりおり
 今年もよろしくお願いいたします。
 2015年が皆様にとって良い年でありますように。
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