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正月準備

2015.12.30 10:35|四季おりおり
 今年も残すところあと2日となりました。
 29日は「二重苦」、「苦の日」として、また31日は「一夜飾り」といって嫌われるため、正月飾りは28日か30日(今日)飾ることが多いようです。
 年神様の依代である門松、不浄な物が玄関から入り込まないようにする注連飾り、年神様に供える鏡餅などが正月飾りとしては一般的。生け花に松竹梅や千両・万両を飾ることもあります。
 かつては12月のほぼひと月をかけて準備をしていた正月準備ですが、近年では簡略化される傾向にあります。
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花街あれこれ④(江戸時代の化粧について)

2015.12.28 22:03|花街あれこれ
 吉原だけに限りませんが、江戸時代のお化粧について。

 【お歯黒】
 江戸時代の特徴的な化粧といえば「お歯黒」。お歯黒をして眉を剃る、というのが、江戸時代の既婚女性の姿でした。因みに、平安時代には上流階級の女性は皆、一定年齢になるとお歯黒をし、眉を剃ったそうです(※1)。
 江戸時代には、黒は他の色に染まらないことから、お歯黒は貞女のしるしとされ、既婚女性であれば誰もがお歯黒をしました。京坂では、遊女や芸者もお歯黒をしたそうです。逆に江戸では吉原の遊女はお歯黒をしたそうですが、芸者はお歯黒をしなかったなど、お歯黒は基本的には既婚女性のするものでしたが、地域差もあったようです(※2)。
 お歯黒は、もとは歯槽膿漏や虫歯予防のためのものであったようですが、明治期以降は禁止されました(※3)。
 【白粉】
 昔は室内が暗かったことから、女性の顔を明るく見せるために顔を白くする化粧が生まれたのが、白粉の始まりともいわれています。古くは米や粟の粉で白くしたそうですが、江戸時代には鉛白から作った白粉が普通でした。
 【紅】
 紅(口紅)は高価なものでしたので、多くは上流階級の女性、あるいは遊女がつけたといわれます。
 「笹紅」と呼ばれるものもあり、これは紅を濃く塗り、黒色を帯びた青にする紅の塗り方をいいました。
 【既婚女性の装いについて】
 よくいわれるのが既婚女性の眉剃りとお歯黒ですが、 『守貞謾稿』によれば、江戸・京都・大坂では未婚女性は島田髷、既婚女性は両輪(京坂)と丸髷(江戸)が専らで、江戸では丸髷にして眉を剃り、お歯黒をつけることを「元服」といい、京坂では「かををなおす(顔を直す)」といったそうです。
 丸髷を結い、お歯黒をしても眉を剃らない場合もあったそうですが、こうした状態は江戸では「半元服」、京坂では「かねつけ」(「かね」は鉄漿、お歯黒のこと)と呼んだそうです。
 京坂では新婦はお歯黒だけして、眉を剃らなかったそうですが、大抵は妊娠すると眉を剃り、まだ嫁いでいなくても、20数歳になればお歯黒をし、眉を剃ったそうです。
 京坂では嫁げば必ずお歯黒をしたようですが、江戸では15~17歳の新婦であればお歯黒をしなかったそうです。また、江戸では、京坂同様、嫁いでいない女性であってもお歯黒をし、眉を剃ったそうですが、お歯黒をし、眉を剃るのは、京坂よりも若干早く18~19歳であったということです。

 ※1……平安中期・後期頃からは公卿の男子もお歯黒をしました。女性の成人のしるしとしてお歯黒をするようになったのは、室町時代からのようです。室町時代後期、戦国時代の始まる頃には、上流武士などもお歯黒をつけたといいます。
 ※2……眉剃やお歯黒については、『守貞謾稿』に、「京坂の女二十歳、江戸は二十未満の少女もいまだ嫁さずして歯を染むる者太(はなは)だ多し」「京坂の遊女および芸子ともに専ら歯を染むるなり。けだし島田曲(=髷)にて眉を剃らざるなり。……江戸は吉原の遊女のみ歯を染むるを良とす。……吉原も芸者は年長じたりといへども歯を染めず。この行京坂に反せり。非官許の遊女・芸者ともに歯を染めず云々」とあります。
 ※3……お歯黒と眉剃りが外国人の目に奇異にうつったのが原因の一つといわれています。明治三年の太政官布告で禁止になり、更に昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が率先してやめたのに従い、行われなくなりました。

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信濃の国②(「信濃」の由来)

2015.12.26 19:38|日本のもの・こと
 長野県は「信州」とも呼ばれます。これは長門国を「長州」と呼ぶのと同様で、旧国名は「信濃」でした。
 それでは、「信濃」という国名は、どういった理由から名づけられたものなのでしょうか。
 かつて信濃とは、「科野」と書き表していました(『古事記』に、諏訪神社の祭神である建御名方命が建御雷神に追いかけられた際に、「故、追徃而、迫至科野國之州羽海……(※州羽海は現在の諏訪湖のこと)」と記載があります。このように「しなの」が「科野」と書き表されていたことから、「しなの」は「科の木」(いわゆる栲)からその名をとったのではないか、とする説があります。かつて長野県には科の木が多く自生していたことが、その国名の語源と考える説です。
 もう一つの説として、山を意味する「科」からとったとする説があります。例えば、「しなだゆふ」「しなざかる」などの「しな」は坂の意で、長野の旧名「しなの」という地名も、級坂(しなざか。段丘)が多いためのものではないかと考えられています。賀茂真淵は『冠辞考』で、「山国にて級坂あれば地の名となりけん」と述べています。
 (因みに、国名を漢字二字で表記するようになったのは701年(大宝年間)に確認できます。『和名類聚抄』(※1)(承平年間=931~938年)『色葉字類抄』(※2)(治承年間=1177~1181年)、『日本大文典』(※3)(慶長13年=1608年)全てにおいて、この国は「しなの」と呼ばれていたことが確認できます)
 それでは、一体なぜ、「科野」が「信濃」へと変わったのでしょうか。
 旧国名は、その多くが大宝頃には漢字二字に改められています。ほぼ同時期に作られた『古事記』と『日本書紀』を比較したときに、『古事記』の方が日本古来のやまとことばを採用しており、『日本書紀』の方が漢文に近い記述法を採用しているといわれます。つまり『日本書紀』は、最も身近な外国である中国への対外意識が反映していると考えることができるのです。それと同様に、旧国名の漢字表記が改められたのも、『日本書紀』同様、中国への対外意識が働いたためではないかと推察されます。信濃は音読みすればシンノウと読めますから、中国における発音が「しなの」に近い字を当てはめたのが「信濃」だったのではないでしょうか。

 科の木が多く自生していたためか、はたまた山が多いからか……。
 どちらにしても、長野県に「蓼科」「立科」「浅科」など「科」のつくの地名が多いことからすると、「科野」という地名は、それを名付けた人々の、自分の住む土地に対する愛着がこめられている名前だといえるでしょう。

 附記①:先ほどの『古事記』にある記述(「故、追徃而、迫至科野國之州羽海……」)は、諏訪神社の祭神・建御名方命が諏訪に鎮座する起源を語った話です。
 附記②:『続日本紀』和銅6年条に「畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。云々」とあります。この好ましい字を漢字二字でつけたのが国名のようです。
 附記③:風の神様のことを「級長戸辺命(しなとべのみこと)」、風の吹き起こる所を「科戸」ということから、科は風の意で、「しなの」が風の国と解する説もあるようです。諏訪の神様が風の神であるから、あるいは風が吹き起こる場所であることが、この地名の由来といいます。この説は、テレビ埼玉・群馬テレビ編『中山道 風の旅 軽井沢─馬籠 編』(株式会社さきたま出版会)で紹介されていました。

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信濃の国①(「長野県」ではなく「信州」)

2015.12.23 19:07|日本のもの・こと
 もうすぐ「真田丸」放送開始ということで、長野県(信州)についていくつか記事を載せていきたいと思います。

 長野県の国立大学は「信州大学」といいます。旧国名が国立大学として使われているのは、長野県だけなのだとか……。因みに、信州大学のキャンパスは、長野市・上田市・松本市などに点在しています。長野市・上田市はまだ近いにしても、松本市へ行くには長野市から電車で1時間弱かかります。
 長野県は明治維新の廃藩置県の際に生まれた県。それも維新直後は「長野県」と「筑摩県」とがあり、その2県が合併したのが「長野県」です。
 明治維新時の「長野県」は、信濃国のうち佐久・小県(ちいさがた)・更級・埴科・高井・水内の六郡から成り、「筑摩県」は諏訪・伊那・筑摩・安曇の四郡に、飛騨国を合わせたものでした。明治9年に筑摩県庁舎が焼失し、中南信の4郡が長野県に合併され、飛騨国が岐阜県に合併されました。信濃国が行政区画として一体の「長野県」になったのがこの時です。もと筑摩県の人にしてみれば、「なぜ『長野』なのか?」という思いがあり、それが「長野県」よりも「信州」としての意識が強いことに繋がっているといえるでしょう。
 そういえば、長野県の県歌は『信濃の国』という歌ですが…… ほとんどの人が県歌を暗誦できるのは、長野県くらいではないかと指摘している本もありました(長野県関連の本で、著者が長野県ではなかった本だったと思いますが)。
 今は時代が変わって、県民意識というものをあまり感じない人も多くなってきているとは思いますが、『信濃の国』の歌詞は長野県内の特徴をよく言い表した歌ではあります。
 旧長野県と旧筑摩県とが合併してできた「長野県」、何度か分割の案も出たそうですが、この『信濃の国』の歌が素晴らしく、長野県と筑摩県に分割されこの歌が失われてしまうのは惜しいと、分割案が流れたというエピソードさえあるほど。
 『信濃の国』は、長野県民の心を繋ぐ歌のようです。

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冬至

2015.12.22 21:01|四季おりおり
 冬至は、夏至とは反対に、1年中で最も昼が短く、夜が長い日です。
 昔の中国では、冬至を太陽運行の起点、つまり暦の始まりと考え、この日を「冬至節」として天を祀る儀式が行われていたそうです。かつて中国の皇帝は天の動きを司る能力を有しているとされていたので、暦づくりによって民や他国にその威光を示す必要があり、冬至節は最も重要な儀式であったようです。
 日本でも、改暦以前は冬至を一年の起点の日として重要視していましたが、太陽暦が採用されてからは春分が重視されるようになりました。
 冬至の日に小豆粥や南瓜を食べるのは、この日村里を巡って春を呼び戻すという神の子(太子)を祀り、そのお供え物を神様と一緒にいただくという習わしからきているといわれます。この日に南瓜を食べると中風にならないとされ、また小豆は邪気を払う赤色であることから、この日に食すのだそうです。あるいは、冬至の日には最後に「ん」のつく食べ物を食べると風邪をひかないともいわれています。
 この日 柚子湯に入るのは、体調を崩しやすい季節の節目であるため。実際、柚子には血行促進効果があるので、冷え性や神経痛など、冬の寒さに影響される病に効果があるようです。

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お久しぶりです

2015.12.10 19:22|雑記
 12月はちょっと、いろいろありまして……
 なかなか更新できないかもしれません。
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