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方角の話③

 中国の陰陽五行説が四神相応の地とされ、平安京造営に影響を与えたことはよく知られています。たとえば、東(方位)は色が青、季節が春、地勢は流水、四神は青龍です。ここからいわゆる「青春」ということばが生まれました。そして、対となる西からは「白秋」ということばが生まれています。西は色が白、季節が秋だからです。朱夏、玄冬ということばも同じです。なお、方位ですと東西南北で終わりとなってしまいますが、五行では中央があり、色が黄、季節が土用です。土用は1年に4回あり、それぞれ立春・立夏・立秋・立冬の前の日までの18日間のことをいいます。
 最も有名なのは夏の土用で、土用の最初の日(土用入り)から土用の最終日(土用明け)までを暑中といい、1年で最も暑い時期でもあります。
 土用丑の日にウナギを食べるのは、平賀源内の発案だということはよく知られています。江戸時代にはすでに、土用丑の日は体調を崩しやすいという俗信がありました。陰陽五行説にあてはめると、暑さは「火」で、これに相克するのは「水」。そして水の色は黒とされていました。なので、黒いウナギは、「火」の暑さを消すものとしてちょうどよいと考えられたようです。
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方角の話② 北

 南については、まだです……。

 古代中国では北極星のある北側が天子の坐す方角だったことから、「天子は南面す」ということばが生まれました。「北」という漢字は、左向きの人と右向きの人が背中合わせになった形から生まれたといいます。天子が南面する場合、天子の背中側が「北」になるので、「北」は背中を意味しましたが、のちに方角のみを指すようになり、「北」に月(にくづき)がついて「背」になったといわれます。

方角の話① 東と西

 方角について調べています。五行説と結びついたり、日本古来の考え方があったりで、面白いのですがなかなか難しい……。
 日本といえば極東といわれる国で、国旗も旭日で、何かと東に縁のある国のような気がします。自国礼賛ですが。

 太陽信仰は世界各地でみられますが、稲作をはじめとした農業が生活の基本の地域では、人びとの太陽への祈りはより切実だったでしょう。時間の経過を表す単位である「日」「月」も、そのことば自体が天体の運行と結びついていることが分かりますが、穀物が1回実る期間が1年に相当することから、五穀、とくに稲のことを「年」とも呼びます。
 太陽が昇るのは東であることから、東は再生や誕生の方角とされてきました。対立する方角である西は、太陽が沈む方向であることから、死の方角ととらえられることがあったようです。厄払いの文句の末尾に「西の海へさらり」ということがあります(「かやうの人は、大虚人也、一儀の事、にしのうみえさらり」吉田半兵衛『好色訓蒙図彙』)が、西方に冥界があり、厄払いの災厄はそこに追い込まれる、という考えがあったようです。そこから、厄払いの異称を「西の海」ともいいます。
 「ヒガシ」「ニシ」とも「シ」がつきますが、「シ」は「風」の古語。嵐(アラシ)・旋風(ツムジ)の「シ」がそうです。このことから、風の向きが方位と結びついていたことが分かりますが、『古事記』『日本書紀』では、方角はむしろ太陽の運行と結びつき、それは太陽神アマテラスの坐す東の伊勢神宮に対し、スサノヲやオホクニヌシといったアマテラスに反抗した神々が活躍する西の出雲が黄泉と結びつけられていることからうかがえます。
 といっても、単純に西=死や冥界の方角、ということもいえません。夜が明ければ朝になり、また一日が始まるように、季節が巡るように、円環の世界観でみれば、死は再生のためのものでもあります。とくに仏教の影響を受けてからは、日本からみて西には天竺──仏教発祥の地であるインドのある方角になりました。
 また、よく「極楽浄土」といいますが、極楽浄土は阿弥陀仏が教主の世界で、西方極楽浄土ともいわれます。日本のお彼岸が春分・秋分であるのは、春分・秋分が、太陽が真東から昇り真西に沈むことから、太陽を礼拝し、西方極楽浄土に思いを馳せる日であるためという説があります。
 阿弥陀如来の極楽浄土が有名ですが、他にも薬師如来が教主である東方浄瑠璃世界などがあります。薬師如来はその字の通り医薬の仏様で、三尊像では左脇侍に日光菩薩、右脇侍に月光菩薩がいらっしゃいます。そして薬師如来の護法神が十二神将なのですが、これは薬師如来が昼も夜も(日光菩薩・月光菩薩)、24時間(十二神将)、衆生を病苦から救おうとしているためといわれます。
 明治になり、江戸は「東京」という名前に変わりました。古来日本の首都であった京都が西にあることに対する「東京」です。現代でも、関東と関西、すなわち東と西とは、その習俗の違いが何かと対比されます。

時間を表すことばについて

 また日本の古くからの習俗等についてぼちぼち調べています。
 日本語について調べるには、スマホアプリの『精選版 日本国語大辞典』がおすすめです。以前は本のタイプのものを購入しようと思ったのですが、いかんせん、価格が……。語源や用例も豊富で、類語との比較も詳細でとてもよいです。
 そんなわけで(?)時間を表すことばについて。

 上代では、明るい時間帯はアサ→ヒル→ユフ、夜の時間帯はユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)→アシタとしていました。昼と夜の境であるユフとユフベはほぼ同じように用いられましたが、ヨナカとアカトキの境がおおよそ丑の刻(午前2時頃)と寅の刻(午前4時頃)であり、この時間帯が上代では日付変更の時間と考えられていました。
 日付の変更はヨナカ・アカトキですが、昼の世界が始まるのはアシタ・アサ。アシタもアサも同じ時間帯を指しますが、アシタが夜に属し、アサが昼に接していると考えられます(多田一臣編『万葉語誌』株式会社筑摩書房、2014年)。アシタ・アサの関係はユフベ・ユフの関係と対応しており、ユフは明るい時間の終わり、ユフベは夜の始まりという意味合いが強いようです。
 現在では夜が明けて明るくなった時間帯はアサといいますが、複合語(朝日・朝霧・朝夕など)として用いられることが多く、逆にアシタは単独語としての使用が通常でした。アサが明るい時間帯の始まりであるのに対し、アシタは暗い時間帯の終わりという意味合いが強かったことから、前夜を受けての「翌朝」という意味合いで用いられるようになり、それがある日から見た「翌日」、さらに今日から見た翌日──明日という意味になったとされています。
 中古以後「アカトキ」は「アカツキ」に転じ、夜が明ける一歩手前の頃である「シノノメ」と、空が薄明るくなる頃をいう「アケボノ」ができたため、アカツキはこれらと混同されるようになっていきました。「アケボノ」といえば、『枕草子』で有名な「春はあけぼの……」以降春との結びつきが多くなり、ほぼ同じ時間の明るさを表す「アサボラケ」は、秋冬との結びつきが多いようです。
 「シノノメ」は「アケボノ」よりもやや暗い頃をいい、中古以降には「しののめの別れ」「しののめの道」など、主として相愛の男女の別れを詠むのに用いられています。この頃になると、共寝した男女が別れ、男性が女性の家から帰らなければならなかったからでしょう(後朝(きぬぎぬ)の別れ)。

 また調べ次第追記します!

男の子の名前

 今日は端午の節句ですね。コロナウイルスの影響で、例年よりずっと静かな日となってしまいましたが……。
 本日のブログは、自サイトに掲載しているものと全く同じ内容になっていまいますが、男の子の名前についてです。

 戦国武将は、名のある武将の名前の1文字を子孫たちが用いることが多くありました。これは、代々同じ文字を使うことによって、その家系が由緒ある家柄や血統にあるのだということを示そうとしたためといわれています。この文字を「通字」といい、たとえば織田氏なら「信」(織田信長、信長の父親「信秀」、信長の長男「信忠」、など)、徳川氏なら「家」、武田氏なら「信」、上杉氏なら「景」などが、それぞれの通字でした。また、摂関政治で有名な藤原家のように、道隆・道綱・道長と兄弟で名前の共通の一字(この場合は「道」)を持っていることがありますが、これを「系字」といい 平安時代前期の嵯峨天皇の親王(正良・秀良・業良・基良・忠良)などで見られます。
 このように名前が家柄・血統を表していたため、主君の名前1字をもらうということは大変名誉なことであり、主君の名前1字を授けられた家臣とその主君との関係は、とりわけ深かったと考えられています。ただ、応仁の乱以後権力が低下していた足利将軍家は、経済的に切迫していたため、自分の名前1字を金銭によって与えてしまうということも行われていたようです。
 上述のほか、幼名(信長の「吉法師」など)、通称もありました。官職名がそのまま通称になることが多く、たとえば織田上総介信長(上総介は自称)、島左近(島清興。石田三成家臣)などがその例です。
 当時は、目下の者が目上の者を呼ぶときだけでなく、目上の者から目下の者を呼ぶときにも、実名を用いて呼ぶことはなかったそうです。ちなみに、死後にいう生前の実名や、貴人の実名のことを「諱」と呼びますが、これは「忌み名」、つまり呼ぶことを憚った名を意味します。本名は、実生活ではほとんど用いられることがないものでした。
 江戸時代の武士も、生まれたときに幼名(元服までの呼び名)をつけられ、元服すれば本名(諱)を名乗り、けれども本名は諱(忌み名)であるから滅多に呼ばずに通称(元服後の呼び名)や綽名を用いました。字(中国風の名前)は成人あるいは許婚ののち用いられたとされ、本名は主に目上の人に名乗り、他には字を称したともいいます。更に出家すれば法名、亡くなれば戒名などがありました。他には学者・文人などが用いる「号」などもありました。
 これらに加えて、一定以上の役職に就くと朝廷から官位が授けられ、その官位名が通称として用いられることもあります。たとえば「左衛門尉」(遠山左衛門尉)などがそうです。

 現在ではあまり意識されることのなかった実名敬避の考えですが、明治初期までには存在していました。
 西郷隆盛の本名は「西郷隆永」であり、隆盛は父親の名なのですが、明治に入って戸籍を作る際、親しい友人が西郷の代わりに戸籍登録の手続をとったとき、友人(西郷)の実名を忘れ、誤って「西郷隆盛」と登録してしまいました。
 実名は、公文書や起請文を書くときだけ用いられていたので、友人も西郷の本名を間違えてしまったということです。
 なお、かつて日本の男性の代表的な名前であった「太郎」さんについては、「長男」「男の子」という意味でした。「太郎」という呼び名は、後継ぎ(総領)息子という意味でしたので、源氏の惣領息子は、源氏の中では「太郎」と呼ばれますが、対外的には「源太郎」、略して「源太」と呼ばれました。判官の位を得た源義経は、九郎判官、また源九郎と呼ばれました。
 太郎の次の男の子は「次郎」と呼ばれます。この「次」には、長男に何かあったときに続くという意味が込められています。とはいえ、「次郎」ではなく「二郎」と書く例も見られます。
 10番目までは「十郎」でしたが、それを超えると「一郎」、「余一郎」、「与一郎」、「小一郎」などと呼ばれました。つまり、「一郎」は、本来は11番目の男の子を指していたのです。そして、12番目、13番目……と男の子が生まれることを想定して、さらに重ねてという意味の「余」や「与」、「小」をつけました。
 もっとも、名前が、生まれた順番をそのまま反映しているというわけではないこともあります。次男の次男であれば「次郎次郎」ですが、この男の子を「小次郎」と呼ぶこともありました。
 また、これは余談になりますが、12番目の男の子であれば、正確には「小二郎」ですが、佐々木小次郎の例があるように、そこまで厳密に「次」と「二」を書き分けているわけではないようです。

身近な地名

 引き続き、地名について調べています。

 とくに珍しい地名ではないのですが、長野県にある私の実家の近くに、「住吉町」という地名があります。大阪府にあるあの有名な住吉大社の末社である住吉神社が鎮座しているのですが、住吉大社といえば海上安全の神様という印象が強く(祭神である住吉三神が海に関連する神様のため)、なぜ海のない長野県に? と思っていました。
 ところがある時、長らく不動産業に携わっている方から、「『住吉』という地名は、住むのにあまり良くなかった土地だからこそつけている場所が多い」と聞き、なるほど、と思いました。これもいわゆる言霊信仰の一種です。
 もともと住吉は、スミノエ──「エ」は「江」つまり海に関連する地名──でしたが、「よい」を意味する上代語に「エ」があったことから「吉」の字を借りていたものが、「スミノエ」の「エ」が「ヨシ」と交替してスミヨシとなったようです。そしてスミヨシ──住吉はそのまま、住むのに良い場所ということで、住むのにあまり良くなかった土地を言霊の力で良くしようと、各地で名づけられていったと考えられます。葦(あし・よし)の生えている場所という意味で名づけられたアシワラが、めでたい意味での「吉原(ヨシワラ)」になったのと同じです。
 また、これも先ほどの住吉の件について教えてくれた方から聞いたお話ですが、「日向」という地名は日陰につけられることが多くあるのだそうです。もちろん、すべての地名がそうというわけではないでしょうが、ことばの力で土地を良くしようという人びとの意識が感じられる命名です。
 そういえば、比較的近年になってつけられた新しい地名は、耳に心地よい地名が多いです。例えば「美里」。美しい里です。また、「○○が丘」なども、聞く人におしゃれな印象を抱かせます。「美里」は私の出身地の市にも、また隣接する市にもある地名なので「おや?」と思ったのですが……。「ひばりが丘」「自由が丘」などの地名がどういった場所にあり、どういった印象を抱かれているのかは、多くの方がご存知の通りです。
 とはいえ、安易な地名改称は非難されがちです。長年住んでいる地域の方の愛着もありますし、何より地名とはその場所につけられた「名前」です。人一人の人生よりずっと長い間、多くの人にその名を呼ばれ、詠われ、愛されてきた土地の名前なのです。
 災害地名のように、その土地が「どのような土地か」を、地名は示しています。それは後世の人びとにその土地の孕む危険性を伝えるものであったり、注意を促すものであったりします。また、それとは別に、先ほどの「住吉」や「日向」のように、例え少しばかり不便であっても、自分たちやその子々孫々が暮らしてゆく土地に愛着を持ち、良い土地であって欲しいと願う気持ちが込められた地名も、数多くあるでしょう。
 自分の住む地域だけでなく、近隣の土地などの地名についても、もう少し調べて考えたいものです。

百人一首

 歌枕について調べている関係で見つけた、「小倉山荘」様の百人一首に関する百人一首講座「ちょっと差がつく百人一首講座」が面白いです。メールマガジンで発行されていたものが、コラムとしてまとまって掲載されているようです。
 「小倉山荘」様といえば、おしゃれなおかき・京都せんべいで有名な老舗店です。お中元やお歳暮で頂くことがありますが、美味しいですよね……。

 地名について調べている関係で歌枕についても調べているのですが、なかなか興味深いです。昨日載せたソメイヨシノの記事も、歌枕の「吉野」について調べている中で知った内容です。連想や語呂合わせ、言葉遊びのようなものが多くて面白いです。
 和菓子は和歌と密接な関係があるものが多いですが、小倉山荘様の「小倉」も、地名の他に和菓子に関連した「小倉餡」で用いられています。『拾遺集』にある藤原忠平「小倉山峯のもみちば心あらば今ひとたびのみゆきまたなん」に因み、粒餡を紅葉に縁ある鹿の子斑に見立て、またあるいは「今ひとたびのみゆき待つ」と美味を称えたことからその名がついたといわれます。
 ちなみに、小倉餡に用いられるのは大納言小豆ですが、「大納言」とついているのは、煮ても皮が破れない(腹が切れない=罪が重くても切腹にならない)からという説があります。こちらも連想ですね。そして大納言小豆より一回り小さい小豆は「中納言小豆」と呼んだりします。
 今は地名について調べていますが、和歌と関連した和菓子についても載せたいと思います。

 和歌と関連していませんが、「ぼたもち(秋は「おはぎ」)」の様々な別名についても面白いです。
 餅米を搗かない→搗き知らず→月知らずで月が見えない「北窓」
 同じく搗き知らず→着き知らず→着いたことが分からない「夜船」

 春は牡丹なので「ぼたもち」、夏は「夜船」、秋は萩で「おはぎ」、冬は「北窓」。なかなか粋な呼び名です。

ソメイヨシノ

 4月にこの話題をブログに上げようと思っていたのですが、気づけば5月に……。そして桜は葉桜になってきています。
 今年はコロナウイルスの影響で、入学・進級・就職などのイベントが自粛となりました。イベントどころか、学生さんや従業員の方の在籍すら危うい状況です。
 色々なことが民間や地方行政頼みで、民間どころか国そのものの運営が自転車操業なのではないかと疑わしくなり、国の未来が不安になりますが……。

 そのような中で、今年はお花見も自粛となりました。桜ほど日本人が愛する花はなく、また春が人を明るい気持ちにさせてくれるのも、桜という花の存在が多分にあると思います。
 私も今年は、実家の庭に咲いているヤマザクラを眺めるだけとなりました。
 現在、桜といえば「ソメイヨシノ」を指すことが多いですが、その名前は、幕末に江戸の染井(現在の東京都豊島区駒込)の植木屋から出たことから付けられたことはよく知られています。しかしこのソメイヨシノ、かつては「ヨシノザクラ」という名前だったのです。桜といえば吉野、という人びとの共通認識があったためでしょう。
 しかし吉野山にこの桜が全く植えられていないことから、「ソメイヨシノ」という名前になったのだとか。そして、吉野山に植えられていなくても、「ヨシノ」という名前は残ったというわけです。
 ソメイヨシノが出始めたのが幕末ですから、ソメイヨシノは比較的歴史が浅い桜の品種であり、それまでの日本人にとって、桜といえば品種ではなく場所の吉野という印象が根付いていたといえます。現在も、桜の時期になると、吉野の桜の一目千本の映像がテレビなどで流れます(今年はさすがに流れませんでしたが)。

 来年の春は明るい春でありますように……。

素材を更新しました

 1年以上ぶりの更新となってしまいましたが、素材を更新しました。
 「ことのは」も自分のPC上では書き進めているのですが、なかなかアップロードに至れず……。

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