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歴史秘話ヒストリア

 昨日放映されたNHK歴史秘話ヒストリアは、「妖怪と神さまの不思議な世界~遠野物語をめぐる心の旅~」でした。
 つい先日、諏訪春雄著『日本の幽霊』(岩波書店、1988年)という本を読んで、そこに幽霊と妖怪の違いを柳田國男が論じたものが載っていたので、それとあわせて楽しく視聴しました。
日本の幽霊 (岩波新書)日本の幽霊 (岩波新書)
(1988/07/20)
諏訪 春雄

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 この本には、柳田國男の考えでは、「おばけは出現する場所が決まっているのに対し、幽霊はどこへでも現われる」、「おばけは相手を選ばず、誰にでも現れわるのに対し、幽霊の現われる相手は決まっていた」、「おばけの出現する時刻は宵と暁の薄明りの時であるのに対し、幽霊は丑満つどきといわれる夜中に出現した」とありますが、著者の諏訪氏はその定義に外れるものを挙げたうえで、「妖怪も幽霊も正当に祀られないカミ(精霊)であることは同じだが、幽霊は人間であったものが人間のかたちをとって出現したものであるのに対し、妖怪は人間以外のかたちをとって出現する」、「幽霊はかならず死者である」との考えを述べています。
 そういわれると、もとは死者であった幽霊よりも、妖怪のほうが人間が霊的なもの・人知を超越したものに対してどういうとらえ方をしているかが反映されているぶん、研究の対象として「妖怪学」という一分野を築きやすかったのかもしれないと思いました。幽霊というと、有名なものは番町皿屋敷と四谷怪談、それとあといくつか……という気がいたします。

 話を「ヒストリア」に戻しましょう。
 私も2年ほど前に遠野を旅行しましたが、日本人の原風景ともいえる景色(山は青きふるさと、水は清きふるさと……のごとき)が広がっていて、日本人の心の中にある自然(神)への考え、畏敬が、今もこの場所に受け継がれているのが分かるように思いました。
 ただ、このように、『遠野物語』というと、遠野という場所に焦点が当たることが多かったので、今回の「ヒストリア」のように、柳田國男自身のこと(周囲で起きた不幸や恋愛について)にも焦点が当たっているのが新鮮でした。
 明治時代というと、日本全体が(「日本という一つの国」として中央集権制が固まっていくのが明治時代ですが)古いものを捨てて、西欧のもの=新しいものとして取り入れられた時代でもあります。列強に並ばなければ国が亡ぶという悲壮感が伴う近代化でもありましたが、庶民の間にはまだ依然として江戸が残っていた。そんな、上からの命令で神仏分離が行われ、「淫祠邪教」が取り締まられていく中での『遠野物語』。興味深いものがあります。
 このことと関連して、明治初期を舞台に、妖怪が関連する不思議な事件を取り扱った京極夏彦『後巷説百物語』(角川書店、2003年)に、興味深い文章がありましたので、以下に抜き出しました。
後巷説百物語 (Kwai books)後巷説百物語 (Kwai books)
(2003/12)
京極 夏彦

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 「妖怪の子──これは、この文明開化のご時世では、単なる差別で御座いますけれどもね、昔は優しさでもあったのです。嘗ては両方の役割を持っていたのですよ。今は片方がなくなってしまった。(後略)」
 「まあ、化物ってのはつくりものですよ。
 江戸の人は知っておりました。皆、知っておりましたよ。
 信じていませんよ。誰も。
 (中略)
 でもねえ。そう、又市さんがね、その昔、こんなことを申しておりました。
 この世はね、悲しいんだ、辛いんだとね。
 だから人は、自分を騙し、世間を騙して、ようやっと生きているんだと。
 つまりこの世は嘘ッ八。その嘘を真と信じ込むなら、そりゃいずれ破綻する。
 かといって、嘘を嘘だとしてしまえばね、悲しくて辛くッて生きて行けない。
 ええ。だからこそ──嘘をね、嘘と承知で信じ込むしか健やかに生きる術はないんだと、又市さんはそう言っていましたよ。煙に巻かれて霞に眩まされてね、それでもいいと夢を見る、これは夢だと知り乍ら、知ってい乍ら信じ込む、夢の中で生きる──。
 だから、お化けは嘘だけれども、居るのです。」

 妖怪や幽霊を描くということは、間接的に、人間自身やその考え方を描くことなのかもしれないな……と思うのでした。
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