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【ことのは】はじめに③

かたる、うたう
 ことばを発することを表す動詞は、複数あります。言う、話す、語る、しゃべる、……。ことばを紙の上にとどめおく動作を表す動詞が「書く」「記す」のみであることを考えると、いかに日本人が「ことばを発すること」を重要視していたかがうかがえます。
 文字がなかった時代や、読み書きができない人の多かった時代には、「話」の多くが口から口に伝えられる形で語り継がれていました。これら口から口に伝えられる物語たちを、「口承文芸」といいます。文学の始まりは口承文芸であり、「物語」ということば自体、「物を語る」というところから出発しています。神話や民話は、祖父母から孫へと語り継がれながら、現在の私たちまで伝わってきているのです。
 ところで、この「かたる」という動詞、「語る」とは違う意味を持った動詞としても使われます。それは「騙る」、すなわち、「安心させて騙す」という意味の動詞です。
 「語る」とは、「物語」のように、「ある程度まとまった話を伝えること」を意味する動詞ですが、安心させて騙すことを意味する「騙る」も同じ、「かたる」と読みます。このことに関して、絵巻物の絵解きを研究されている大学の先生が、以下のようにおっしゃっていました。――「物語」とはその名のごとく、ほんらい人が「物語る」話のことだが、語り継いでいるうちに曖昧になってしまったり、あるいは語り手が「こうしたほうが面白い」と、話に手を加えてしまったりすることがあった。悪意はないけれども、面白くしようとして話を大きくしてしまったり、付け足してしまったり、変えてしまって「語る」ことが、「騙る」こととなったのではないか。
 たとえば、同じ『桃太郎』でも、地方によって細部が異なっていることがあります。川上から流れてきた桃を食べて若返ったおじいさんとおばあさんから生まれたとする話もありますし、桃太郎が桃のなかから生まれたとする話でも、緑の桃と赤い桃とが流れてきて、赤い桃から桃太郎が生まれたとする話もあります。
 自分の知っている話(現在では、昔話の多くは本によって知ることになっているので、全国的にほぼ同じ内容の『桃太郎』が認知されているようですが)と内容が異なっている物語があるのは、物語がほんらい口伝えで伝わるものだったからです。一つの話を十人の人が聞き、家に帰ってその話を子どもに語るとします。何度も聞いて完璧に語れる人もいれば、記憶が頼りですから、細かい点を忘れてしまう人もいるでしょう。そもそも、「語らない」という選択肢さえあります。十人の人がいれば、十人分、少しずつ違った話が伝わって(あるいは、伝わらないで)いきます。口から口へ伝えられていくなかで脚色されたり、一部が欠落したり削除されたり、または追加された結果、地方色豊かな昔話ができあがったのです。
 これとは逆に、別々の話でありながら、他の話ととてもよく似ている点が見られる昔話もあります。たとえば、『花咲か爺』に登場する犬は、川上から流れてきた桃に入っていたとする話が伝わっている地域があります(そのほかに、もともとお爺さんとお婆さんが飼っていたという話、川上から赤白の香箱が流れてきて、犬は白い香箱から生まれたとする話もあります)。この犬の登場の仕方は、私たちのよく知る桃太郎と同じです。『花咲か爺』に登場するこの犬の灰を爺さんが撒くと、枯れていたはずの木に花が咲きました。つまり、『花咲か爺』に登場するこの犬はもともと普通の犬ではなく、初めから霊犬だったと考えられるのです。超常的な力を持っていたからこそ、『花咲か爺』に登場する犬(多くは白い犬とされていて、ポチやシロといった名前があるようです)も桃太郎も、川上から、桃に入って流れてきたのです。桃太郎と『花咲爺』の犬に見られるこの共通点は、桃が霊力のある植物とされていたこと、他とは違った生まれ方をしたものには霊力があるとされていたこと、川上(すなわち、山)には別世界があり、そこから来るものには不思議な力があると考えられていたことなど、日本に古くからある信仰・思想と結びついています。
 伝わってきた物語の形式が一つしかなかったら、「なぜ桃が川を流れてきたのだろう?」「桃太郎はなぜ『桃』から生まれたのだろう?」など、「昔話だから」「迷信」で済まされてしまいそうな「不思議」が多く残ったでしょう。しかし、さまざまな形の話が現代まで伝わっていることで、私たちはこれらを比べ、読み解き、紐解き、『桃太郎』や『花咲か爺』の根底に、日本人が古くからもっていた思想が流れていることを知ることができます。
 また、これらの昔話は、長い時代を経て現代まで伝わってきています。それは祖父母から孫へ語り継がれる話であるという、口から出された「言」のもつ力と、多くの人を経て「騙られる」ことによって多様に変化した物語の魅力があるからではないでしょうか。「かたる」とは、物語を伝えることである(=「語る」)のと同時に、受取手が話の創作に関わる(=「騙る」)ことでもあったのです。
 話を元に戻しましょう。昔話もお伽噺も、「話」や「噺」をつけています。お伽噺はその名の示す通り、夜、寝る前に聞かせるお話です。話は「話す」からきていますし、物語も「物を語る」というところから出発しています。物語とはもともと、声に出して聞かせるものでした。ちなみに、「語る」も「話す」も、同じようにことばを発する動作を表す動詞ですが、昔語りなどの「語る」という行為は、「旋律をつけた一定の形式をもって発話される動作」を指すようです。
 先に「言ふ」から「祈る」が、「宣る」から「祈る」や「呪う」、「宣う」、「罵る」が生じたと書きました。口に出して「言ふ」もしくは「宣る」ことはそれ自体呪力を持っていましたが、繰り返し言う(=祝う)ことや聖なることばを宣る(=祈る)ことは、その方法や発する内容を変えることで、単に「言ふ」ことや「宣ふ」こととは異なる力を持ちました。
 特に「歌ふ」ということは、一定の節をつけてことばを発するので、とりわけ強い力を持っていると考えられました。「歌ふ」ということば自体、「訴ふ」と同義で、「歌ふ」ということは「神様に訴えかける」という意味を持つのだといわれています。
 節はつけないながらも一定の語調で「詠まれる」ものも「歌」(和歌)といいますが、これも声に出したときに耳に心地よい七五調で詠まれています。『万葉集』や『古今和歌集』などに「詠まれた」ものには恋の歌が多いといわれますが、かつては神に、時代が下っては人の心に訴えかけるのが、「歌」であるからかもしれません。
 冒頭に掲げた『古今和歌集』仮名序を、再びここに記します。

力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり。
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