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男の子の名前

 今日は端午の節句ですね。コロナウイルスの影響で、例年よりずっと静かな日となってしまいましたが……。
 本日のブログは、自サイトに掲載しているものと全く同じ内容になっていまいますが、男の子の名前についてです。

 戦国武将は、名のある武将の名前の1文字を子孫たちが用いることが多くありました。これは、代々同じ文字を使うことによって、その家系が由緒ある家柄や血統にあるのだということを示そうとしたためといわれています。この文字を「通字」といい、たとえば織田氏なら「信」(織田信長、信長の父親「信秀」、信長の長男「信忠」、など)、徳川氏なら「家」、武田氏なら「信」、上杉氏なら「景」などが、それぞれの通字でした。また、摂関政治で有名な藤原家のように、道隆・道綱・道長と兄弟で名前の共通の一字(この場合は「道」)を持っていることがありますが、これを「系字」といい 平安時代前期の嵯峨天皇の親王(正良・秀良・業良・基良・忠良)などで見られます。
 このように名前が家柄・血統を表していたため、主君の名前1字をもらうということは大変名誉なことであり、主君の名前1字を授けられた家臣とその主君との関係は、とりわけ深かったと考えられています。ただ、応仁の乱以後権力が低下していた足利将軍家は、経済的に切迫していたため、自分の名前1字を金銭によって与えてしまうということも行われていたようです。
 上述のほか、幼名(信長の「吉法師」など)、通称もありました。官職名がそのまま通称になることが多く、たとえば織田上総介信長(上総介は自称)、島左近(島清興。石田三成家臣)などがその例です。
 当時は、目下の者が目上の者を呼ぶときだけでなく、目上の者から目下の者を呼ぶときにも、実名を用いて呼ぶことはなかったそうです。ちなみに、死後にいう生前の実名や、貴人の実名のことを「諱」と呼びますが、これは「忌み名」、つまり呼ぶことを憚った名を意味します。本名は、実生活ではほとんど用いられることがないものでした。
 江戸時代の武士も、生まれたときに幼名(元服までの呼び名)をつけられ、元服すれば本名(諱)を名乗り、けれども本名は諱(忌み名)であるから滅多に呼ばずに通称(元服後の呼び名)や綽名を用いました。字(中国風の名前)は成人あるいは許婚ののち用いられたとされ、本名は主に目上の人に名乗り、他には字を称したともいいます。更に出家すれば法名、亡くなれば戒名などがありました。他には学者・文人などが用いる「号」などもありました。
 これらに加えて、一定以上の役職に就くと朝廷から官位が授けられ、その官位名が通称として用いられることもあります。たとえば「左衛門尉」(遠山左衛門尉)などがそうです。

 現在ではあまり意識されることのなかった実名敬避の考えですが、明治初期までには存在していました。
 西郷隆盛の本名は「西郷隆永」であり、隆盛は父親の名なのですが、明治に入って戸籍を作る際、親しい友人が西郷の代わりに戸籍登録の手続をとったとき、友人(西郷)の実名を忘れ、誤って「西郷隆盛」と登録してしまいました。
 実名は、公文書や起請文を書くときだけ用いられていたので、友人も西郷の本名を間違えてしまったということです。
 なお、かつて日本の男性の代表的な名前であった「太郎」さんについては、「長男」「男の子」という意味でした。「太郎」という呼び名は、後継ぎ(総領)息子という意味でしたので、源氏の惣領息子は、源氏の中では「太郎」と呼ばれますが、対外的には「源太郎」、略して「源太」と呼ばれました。判官の位を得た源義経は、九郎判官、また源九郎と呼ばれました。
 太郎の次の男の子は「次郎」と呼ばれます。この「次」には、長男に何かあったときに続くという意味が込められています。とはいえ、「次郎」ではなく「二郎」と書く例も見られます。
 10番目までは「十郎」でしたが、それを超えると「一郎」、「余一郎」、「与一郎」、「小一郎」などと呼ばれました。つまり、「一郎」は、本来は11番目の男の子を指していたのです。そして、12番目、13番目……と男の子が生まれることを想定して、さらに重ねてという意味の「余」や「与」、「小」をつけました。
 もっとも、名前が、生まれた順番をそのまま反映しているというわけではないこともあります。次男の次男であれば「次郎次郎」ですが、この男の子を「小次郎」と呼ぶこともありました。
 また、これは余談になりますが、12番目の男の子であれば、正確には「小二郎」ですが、佐々木小次郎の例があるように、そこまで厳密に「次」と「二」を書き分けているわけではないようです。
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