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方角の話③

ことのは
05 /31 2020
 中国の陰陽五行説が四神相応の地とされ、平安京造営に影響を与えたことはよく知られています。たとえば、東(方位)は色が青、季節が春、地勢は流水、四神は青龍です。ここからいわゆる「青春」ということばが生まれました。そして、対となる西からは「白秋」ということばが生まれています。西は色が白、季節が秋だからです。朱夏、玄冬ということばも同じです。なお、方位ですと東西南北で終わりとなってしまいますが、五行では中央があり、色が黄、季節が土用です。土用は1年に4回あり、それぞれ立春・立夏・立秋・立冬の前の日までの18日間のことをいいます。
 最も有名なのは夏の土用で、土用の最初の日(土用入り)から土用の最終日(土用明け)までを暑中といい、1年で最も暑い時期でもあります。
 土用丑の日にウナギを食べるのは、平賀源内の発案だということはよく知られています。江戸時代にはすでに、土用丑の日は体調を崩しやすいという俗信がありました。陰陽五行説にあてはめると、暑さは「火」で、これに相克するのは「水」。そして水の色は黒とされていました。なので、黒いウナギは、「火」の暑さを消すものとしてちょうどよいと考えられたようです。

方角の話② 北

ことのは
05 /30 2020
 南については、まだです……。

 古代中国では北極星のある北側が天子の坐す方角だったことから、「天子は南面す」ということばが生まれました。「北」という漢字は、左向きの人と右向きの人が背中合わせになった形から生まれたといいます。天子が南面する場合、天子の背中側が「北」になるので、「北」は背中を意味しましたが、のちに方角のみを指すようになり、「北」に月(にくづき)がついて「背」になったといわれます。

方角の話① 東と西

ことのは
05 /29 2020
 方角について調べています。五行説と結びついたり、日本古来の考え方があったりで、面白いのですがなかなか難しい……。
 日本といえば極東といわれる国で、国旗も旭日で、何かと東に縁のある国のような気がします。自国礼賛ですが。

 太陽信仰は世界各地でみられますが、稲作をはじめとした農業が生活の基本の地域では、人びとの太陽への祈りはより切実だったでしょう。時間の経過を表す単位である「日」「月」も、そのことば自体が天体の運行と結びついていることが分かりますが、穀物が1回実る期間が1年に相当することから、五穀、とくに稲のことを「年」とも呼びます。
 太陽が昇るのは東であることから、東は再生や誕生の方角とされてきました。対立する方角である西は、太陽が沈む方向であることから、死の方角ととらえられることがあったようです。厄払いの文句の末尾に「西の海へさらり」ということがあります(「かやうの人は、大虚人也、一儀の事、にしのうみえさらり」吉田半兵衛『好色訓蒙図彙』)が、西方に冥界があり、厄払いの災厄はそこに追い込まれる、という考えがあったようです。そこから、厄払いの異称を「西の海」ともいいます。
 「ヒガシ」「ニシ」とも「シ」がつきますが、「シ」は「風」の古語。嵐(アラシ)・旋風(ツムジ)の「シ」がそうです。このことから、風の向きが方位と結びついていたことが分かりますが、『古事記』『日本書紀』では、方角はむしろ太陽の運行と結びつき、それは太陽神アマテラスの坐す東の伊勢神宮に対し、スサノヲやオホクニヌシといったアマテラスに反抗した神々が活躍する西の出雲が黄泉と結びつけられていることからうかがえます。
 といっても、単純に西=死や冥界の方角、ということもいえません。夜が明ければ朝になり、また一日が始まるように、季節が巡るように、円環の世界観でみれば、死は再生のためのものでもあります。とくに仏教の影響を受けてからは、日本からみて西には天竺──仏教発祥の地であるインドのある方角になりました。
 また、よく「極楽浄土」といいますが、極楽浄土は阿弥陀仏が教主の世界で、西方極楽浄土ともいわれます。日本のお彼岸が春分・秋分であるのは、春分・秋分が、太陽が真東から昇り真西に沈むことから、太陽を礼拝し、西方極楽浄土に思いを馳せる日であるためという説があります。
 阿弥陀如来の極楽浄土が有名ですが、他にも薬師如来が教主である東方浄瑠璃世界などがあります。薬師如来はその字の通り医薬の仏様で、三尊像では左脇侍に日光菩薩、右脇侍に月光菩薩がいらっしゃいます。そして薬師如来の護法神が十二神将なのですが、これは薬師如来が昼も夜も(日光菩薩・月光菩薩)、24時間(十二神将)、衆生を病苦から救おうとしているためといわれます。
 明治になり、江戸は「東京」という名前に変わりました。古来日本の首都であった京都が西にあることに対する「東京」です。現代でも、関東と関西、すなわち東と西とは、その習俗の違いが何かと対比されます。

時間を表すことばについて

ことのは
05 /28 2020
 また日本の古くからの習俗等についてぼちぼち調べています。
 日本語について調べるには、スマホアプリの『精選版 日本国語大辞典』がおすすめです。以前は本のタイプのものを購入しようと思ったのですが、いかんせん、価格が……。語源や用例も豊富で、類語との比較も詳細でとてもよいです。
 そんなわけで(?)時間を表すことばについて。

 上代では、明るい時間帯はアサ→ヒル→ユフ、夜の時間帯はユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ(アカトキ)→アシタとしていました。昼と夜の境であるユフとユフベはほぼ同じように用いられましたが、ヨナカとアカトキの境がおおよそ丑の刻(午前2時頃)と寅の刻(午前4時頃)であり、この時間帯が上代では日付変更の時間と考えられていました。
 日付の変更はヨナカ・アカトキですが、昼の世界が始まるのはアシタ・アサ。アシタもアサも同じ時間帯を指しますが、アシタが夜に属し、アサが昼に接していると考えられます(多田一臣編『万葉語誌』株式会社筑摩書房、2014年)。アシタ・アサの関係はユフベ・ユフの関係と対応しており、ユフは明るい時間の終わり、ユフベは夜の始まりという意味合いが強いようです。
 現在では夜が明けて明るくなった時間帯はアサといいますが、複合語(朝日・朝霧・朝夕など)として用いられることが多く、逆にアシタは単独語としての使用が通常でした。アサが明るい時間帯の始まりであるのに対し、アシタは暗い時間帯の終わりという意味合いが強かったことから、前夜を受けての「翌朝」という意味合いで用いられるようになり、それがある日から見た「翌日」、さらに今日から見た翌日──明日という意味になったとされています。
 中古以後「アカトキ」は「アカツキ」に転じ、夜が明ける一歩手前の頃である「シノノメ」と、空が薄明るくなる頃をいう「アケボノ」ができたため、アカツキはこれらと混同されるようになっていきました。「アケボノ」といえば、『枕草子』で有名な「春はあけぼの……」以降春との結びつきが多くなり、ほぼ同じ時間の明るさを表す「アサボラケ」は、秋冬との結びつきが多いようです。
 「シノノメ」は「アケボノ」よりもやや暗い頃をいい、中古以降には「しののめの別れ」「しののめの道」など、主として相愛の男女の別れを詠むのに用いられています。この頃になると、共寝した男女が別れ、男性が女性の家から帰らなければならなかったからでしょう(後朝(きぬぎぬ)の別れ)。

 また調べ次第追記します!

男の子の名前

ことのは
05 /05 2020
 今日は端午の節句ですね。コロナウイルスの影響で、例年よりずっと静かな日となってしまいましたが……。
 本日のブログは、自サイトに掲載しているものと全く同じ内容になっていまいますが、男の子の名前についてです。

 戦国武将は、名のある武将の名前の1文字を子孫たちが用いることが多くありました。これは、代々同じ文字を使うことによって、その家系が由緒ある家柄や血統にあるのだということを示そうとしたためといわれています。この文字を「通字」といい、たとえば織田氏なら「信」(織田信長、信長の父親「信秀」、信長の長男「信忠」、など)、徳川氏なら「家」、武田氏なら「信」、上杉氏なら「景」などが、それぞれの通字でした。また、摂関政治で有名な藤原家のように、道隆・道綱・道長と兄弟で名前の共通の一字(この場合は「道」)を持っていることがありますが、これを「系字」といい 平安時代前期の嵯峨天皇の親王(正良・秀良・業良・基良・忠良)などで見られます。
 このように名前が家柄・血統を表していたため、主君の名前1字をもらうということは大変名誉なことであり、主君の名前1字を授けられた家臣とその主君との関係は、とりわけ深かったと考えられています。ただ、応仁の乱以後権力が低下していた足利将軍家は、経済的に切迫していたため、自分の名前1字を金銭によって与えてしまうということも行われていたようです。
 上述のほか、幼名(信長の「吉法師」など)、通称もありました。官職名がそのまま通称になることが多く、たとえば織田上総介信長(上総介は自称)、島左近(島清興。石田三成家臣)などがその例です。
 当時は、目下の者が目上の者を呼ぶときだけでなく、目上の者から目下の者を呼ぶときにも、実名を用いて呼ぶことはなかったそうです。ちなみに、死後にいう生前の実名や、貴人の実名のことを「諱」と呼びますが、これは「忌み名」、つまり呼ぶことを憚った名を意味します。本名は、実生活ではほとんど用いられることがないものでした。
 江戸時代の武士も、生まれたときに幼名(元服までの呼び名)をつけられ、元服すれば本名(諱)を名乗り、けれども本名は諱(忌み名)であるから滅多に呼ばずに通称(元服後の呼び名)や綽名を用いました。字(中国風の名前)は成人あるいは許婚ののち用いられたとされ、本名は主に目上の人に名乗り、他には字を称したともいいます。更に出家すれば法名、亡くなれば戒名などがありました。他には学者・文人などが用いる「号」などもありました。
 これらに加えて、一定以上の役職に就くと朝廷から官位が授けられ、その官位名が通称として用いられることもあります。たとえば「左衛門尉」(遠山左衛門尉)などがそうです。

 現在ではあまり意識されることのなかった実名敬避の考えですが、明治初期までには存在していました。
 西郷隆盛の本名は「西郷隆永」であり、隆盛は父親の名なのですが、明治に入って戸籍を作る際、親しい友人が西郷の代わりに戸籍登録の手続をとったとき、友人(西郷)の実名を忘れ、誤って「西郷隆盛」と登録してしまいました。
 実名は、公文書や起請文を書くときだけ用いられていたので、友人も西郷の本名を間違えてしまったということです。
 なお、かつて日本の男性の代表的な名前であった「太郎」さんについては、「長男」「男の子」という意味でした。「太郎」という呼び名は、後継ぎ(総領)息子という意味でしたので、源氏の惣領息子は、源氏の中では「太郎」と呼ばれますが、対外的には「源太郎」、略して「源太」と呼ばれました。判官の位を得た源義経は、九郎判官、また源九郎と呼ばれました。
 太郎の次の男の子は「次郎」と呼ばれます。この「次」には、長男に何かあったときに続くという意味が込められています。とはいえ、「次郎」ではなく「二郎」と書く例も見られます。
 10番目までは「十郎」でしたが、それを超えると「一郎」、「余一郎」、「与一郎」、「小一郎」などと呼ばれました。つまり、「一郎」は、本来は11番目の男の子を指していたのです。そして、12番目、13番目……と男の子が生まれることを想定して、さらに重ねてという意味の「余」や「与」、「小」をつけました。
 もっとも、名前が、生まれた順番をそのまま反映しているというわけではないこともあります。次男の次男であれば「次郎次郎」ですが、この男の子を「小次郎」と呼ぶこともありました。
 また、これは余談になりますが、12番目の男の子であれば、正確には「小二郎」ですが、佐々木小次郎の例があるように、そこまで厳密に「次」と「二」を書き分けているわけではないようです。

へまむしょ